UNITÉトークイベント:愛が行方不明
先日刊行された僕のマリさんの「いかれた慕情」のサイン本が欲しくてUNITÉさんのウェブショップをチェックしていたところ、トークイベントがあることを知り迷わずチケットを購入した。
「常識のない喫茶店」で知った僕のマリさんは、このブログの登場回数も最多である通り、大好きな作家さん。
これまでもサイン会やトークイベントでお話しされているお姿を拝見しているけど、小花柄のワンピースが似合う小柄な女性(私のイメージ)で、普段何を見て何を感じればあんな風に書けるのか知りたくて、それに言葉の紡ぎ方が秀逸でお話そのものが面白いから、最近チャンスがあればイベントに参加している。
一緒に登壇されるのは古賀及子さん。古賀さんの本は気になっているけどまだ読めていない。ごく個人的な理由というか、「こんなお母さんだったら良かったのに」と思いながら読んでしまいそうで、コンプレックスを刺激される気がして手が出ない。いずれ、きっと、と思っている。
トークイベント中「曝け出す」という事について考えていた。特にマリさんは書くことに躊躇いがなく、曝け出すことに迷いが一切感じられない。驚くと同時に羨ましいと思う自分がいる。
曝け出すって怖い。曝け出して嫌われて離れて行ってしまったらと思うと足が竦む。そうならないように、自分を取り繕って良い顔をして、でもそのうち限界が来て、破滅する。心を病むか、病む前にフェードアウトして連絡を断ち人間関係をリセットする。私は私が嫌いだし、そんな私を他人が好きでいてくれるはずがないと思っているから。
じゃあ友人にも言えない本当の気持ちをブログに書けたら、と思って書き始めてもやはりブロックが掛かって消してしまったことが何度もある。
お二人がここまで曝け出せるのは「信頼」してるからなんだろう。家族、友人やパートナー、何よりも自分を。そんなことが頭を過ぎる。
マリさんは、物心ついたときから読み書きが好きで、それにずっと少しずつ救われてきたという。自分が言わなくてもその気配を親や学生時代の友人が察知してくれて、友達は本が出たときに泣いて喜んでくれた。周囲からの暖かな眼差しに「土台」という言葉が浮かぶ。
それは私が欲しかったものだ。安心して私を曝け出すために必要な「土台」。親や友人からの愛情、子供への愛情。愛情がその人の土台を作る。
ある日、古賀さんが息子さん用のお弁当にオレンジを入れ、その日は食べやすいよう房に切れ目を入れたそう。夕方帰宅した息子さんが「食べやすくしてくれて愛を感じた」と感想を述べそれを聞いた古賀さんは「愛ってめちゃくちゃめんどくさいな」と思ったという。
オレンジの房に切れ目を入れる日も、入れない日も、愛の質量は変わらない。そうおっしゃった古賀さんに、というかきっと自分の母親に、子供時代のいじけた私が反論する。
私はまだいじけて生きている。子供の頃の自分がちっとも癒えない。